東京都鏡商工業協同組合

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金属鏡の歴史
彩画龍文鏡 最も古い鏡は水鏡であったと考えられ、古代の人々は水面を鏡として利用していたようです。その後、金属を磨いて鏡をつくり、祭事などに使用していたことが研究からわかっています。
中国古鏡:彩画龍文鏡
戦国中期(前4〜3C・縄文晩期)  静岡市・村上英二氏所蔵
日本に鏡が最初に伝わってきたのは、紀元前(中国前漢時代)と言われている。弥生時代から古墳時代にかけて中国の後漢・三国・六朝の鏡がたくさん入ってきた。それらは顔を映す物としてより、有力な豪族たちの宝物や祭事の器として珍重された。
中国古鏡:羽状文地四葉文方鏡
前漢前期(前3〜2世紀・弥生前期)静岡市・村上英二氏所蔵
古墳時代には日本製の鏡も出てくる。中国の漢・三国・六朝の鏡をまねたものである。日本式文様として有名な鏡は家屋文鏡・直弧文鏡・狩猟文鏡がある。ふちに鈴をつけた鈴(れい)鏡も日本式のものであるが、鏡背の文様は中国の模倣である。日本製の鏡は3〜4世紀に入ってから作られ「倣製鏡」と言われ、次第にやさしい文様となる。これらの鏡を鋳造したのは鏡作部(かがみつくりべ)といわれる工人である。正倉院に伝わる多くの鏡は奈良時代を代表する秀作であるが、一部は唐製と考えられる。
日本最古の鏡
三角縁銘帯四神四獣鏡
これらの鏡は東大寺大仏への献納品や、聖武天皇御使用のものなどの動物・草木・山水を浮彫りに鋳出した白銅鏡、螺鈿(らでん)や琥珀(こはく)で花文様を出した鏡、金の薄板を切り透かした文様を漆地に埋め込んだ平脱鏡、絵文様を彫ったものに鍍金した銀板を貼った銀貼鏡、花文様を七宝で飾ったものな平安前期の鏡も唐鏡の模倣に類するものが多いが、奈良時代のような大型のものは作られていない。

平安後期になって床鏡の影響をうけて厚さの薄い新形式の鏡が現われて、鋳出の浮彫りの調子もやさしくなり、文様も唐風のまだ残る瑞花(ずいか)双鳳文から和風の草花双鳥文になった。すなわち瑞花文は山吹・桜・萩・薄・楓・菊など自然の風物にみられる草や花紋となり、双鳳文は尾長鳥・鶴・千鳥・雀と変わって日本独特の文様を持つ「和鏡」となった。

平安時代の鏡は貴族の化粧道具としてばかりでなく、神仏への奉納物となって神像や仏像が鏡面に彫られ仏教の儀式でも使用された。出羽の羽黒山池から発見された多数の奉納鏡や、吉野の金峰山の発掘のものなどは、当時の習俗を知る上での好資料である。
優雅な文様を持った平安後期も鎌倉時代に近くなると、縁が厚くなり文様の浮彫も高くなる。鎌倉時代の鏡は技巧的に重厚なものだが、文様の表現は硬くなり情趣に乏しくなる。鎌倉末期になると、中国の鏡の影響を受け、鋸歯(きょし)文を表現した新しい形式の鏡が出現し、室町時代に入って盛んに行われた。
室町時代の後期になると、鏡に柄をつけた柄鏡(えかがみ)が出現した。鏡に柄がつくようになると、鏡背の中心にあった鈕(ちゅう)が不必要になり鏡背一面にのびのびと文様がつけられるようになった。この柄鏡の様式は近世和鏡のの主流となり、「天下一」をはじめ「天下一佐渡」「天下一但馬」など鏡師の名称も入れられるようになった。
江戸時代になると、柄鏡は新しい鋳造法によって量産化され、広く庶民の間に広まった懐中鏡も同様に量産されて用いられた。この時代の鏡は需要度が高く、量産が行われたため、その多くは一つの原型から大量に作る踏返し鋳造の粗悪品である。文様の面では南天・千両・紋所・蓬莱図など、吉祥慶賀文様などと題材が豊かであり、庶民感情に結びついたものが多い。

銅鏡は鏡面が酸化して曇らないようにするためもあって、使用しないときには布に包んで鏡箱に納め、化粧するときには鏡台に掛けて用いた。鏡箱の形にしたがい円形、或いは八つ花形に作られて、蒔絵や螺鈿をほどこした美しいものだった。


和銅元年(8世紀)に武蔵の国から銅がとれるようになり、大和の国中に集落をつくって鏡作部たちが、時の部族の長が争って宝物として鏡を作らせていたもので、長い間、庶民のものではなかった。それが江戸時代に入り、近江八幡の西南三鏡山村で多く作られ、柄のついた柄鏡、紙入鏡として小さな長方形の鏡が、売り人によって全国に伝わり、初めて一番の民家でも銅鏡が使われるようになった。                            
日本の銅鏡:白銅柄鏡
三重硝子工業株式会社所蔵
ここで銅鏡の作り方を述べると、よく粘った土を丸くして、厚さを作ったものに、ヘラで文様を押し込むように描き、火で焼いて堅くして型を作る。その中に高温で溶かした銅と錫、鉛と少量の砒素を加えたどろどろの湯を注いで鋳造する。文様のある面を裏に、表になる平らな面を磨き上げて映るように仕上げる。銅鏡を使っていると銅錆が出るので、ときどき鏡磨師に磨いてもらって使用していたのである。大事なのは鏡面であるが、やすりやきさげで平らに削り、砥石で下磨きをし、更に朴炭(ほおずみ)で磨きあげる。
更に、映るようにするには錫メッキをしたりする。日本では奈良・平安時代までは錫メッキしたものはなく、平安後期になってからである。鎌倉時代の『鶴岡職人尽歌合』によると、酸気を持っているカタバミ草で金属の鏡面を洗い水銀と錫を合わせたものを塗ったことが記されている。室町時代にはザクロを用いており、鏡磨師という専門職がいたことが『七十一番職人歌合』にみられる。
日本の銅鏡 :角 鏡
三重硝子工業株式会社 所蔵
ガラス鏡の歴史